私は

人並みに幸せである,という事が大事だと思ってきた
なんとか人並みになろうと 欲してきた

しかしその考え方は 逆で

人並みであろう と思うから苦しくなる
人がうらやましくてしかたなくて 立ち止まる

人と比べて 自分の環境がどんなに恵まれていないか
自分が 自分の周りの人間にどれだけ恵まれていないか
他人の話ばかり聞いて うらやましくなり
立ち止まって 呪詛ばかり唱えるようになる


そうじゃなくて


うまくいえないけど


人と同じような幸せ
ステレオタイプな幸せ
を望んじゃいけない 
って この前思った

それは 悲観的なわけではなくて

もう それを望めない「環境」だから 仕方ないと 割り切る
ストンと 受け入れる


例えば戦時中とか 争乱中の国々は
環境を呪っても仕方ない状況で 
だから環境を受け入れていて その中で 自ら動いて 幸せを探して生きている


私の環境も もちろん 色んな事が 他の人とは違って

経費を会社が出してくれるサラリーマンの方がうらやましかったり 親が資産を持っている方がうらやましかったり
はたまた 独身キャリアウーマンの人がうらやましかったり 反対に専業主婦の方がうらやましかったり 
アットホームに家族旅行できたりする家がうらやましかったり

でも

この環境が わたしに与えられたものだから 仕方ない

けど みんなが同じ環境にある世界じゃなくて

身近にたくさんのうらやましいがあるから
テレビや雑誌から たくさんのうらやましいが飛びだしてくるから
その度に立ち止まって 指をくわえて眺めて そして自分を眺めて 泣いたりもした



環境を呪わず
人と同じような幸せは望まず 


「自分に与えられた環境」という枠の中で

自分で動くことによって探すことができる 幸せをさがす


自分の置かれた環境の中で とにかく自分がフル回転して 動く


そうすると なんか 逆に

人が頑張っている姿が良く見えて

人に優しくなれたりした


おもしろいです


フル回転といえば


私は,「気力」というものは元々人に宿っているものであり,
私にはそれが足りないのだと思っていた

でも最近 ちょっと違うんじゃないかと思ってきた

気力が足りないとき
だるいとうなだれて 現実逃避するのではなくて

気力が枯渇して頭が痛くても でも とにかく足を引きずりながらでも動く というか 這ってでも 何か目的を持って 仕事をこなしていく
これを終わらせたらこれをして これを終わらせたらこれをして,と
とにかく動く

そうすると

気力が枯渇したところから ちょっと水がしみ出してくる
そして アイドリングがはじまって 結構走れるようになる
色んな事を見回しながら フル回転に近い形でも 楽に走れるようになる

私には その一がんばりが足りなかったのではないだろうか
気力が出てくるまでのつらい一がんばりが

そんな事をつらつら 発見したり

あとあともう1つ

最初あるいは終板の気力を絞り出すためには 結構 

その時に欲しい食べ物を食べる 

というのが有効なことも発見!!!
今日は朝の仕事前に,昨日からずっと食べたかった モンブランを食べました
ものすごくやる気が出ました!!!